スポットをクリックすると詳細がご確認いただけます。
八百富神社は、蒲郡市の沖合に浮かぶ竹島に鎮座する神社です。全長387メートルの歩道橋が本土と竹島を結んでおり、緑豊かな植生の中に本殿などいくつかの神社が建っています。八百富神社の歴史は12世紀まで遡りますが、島はそれよりも遥か昔から神聖視されていたと考えられています。神社と島は境内を横切り、海沿いの岩場に沿って橋まで戻る散策路で探索できます。
八百富神社は、藤原俊成(1114-1204)が三河国(現在の愛知県東部)国司を務めていた1181年に創建しました。この神社の初期の歴史については確実なことが多く知られていませんが、社伝によると、俊成は京都近郊の琵琶湖の小島、竹生島にある同じような神社に親しみを覚えました。
竹生島の神社は、水にまつわる神、ひいては芸術や文化の守護神とされている弁財天を祀りました。俊成は竹島にその分霊を勧請したため、八百富神社の祭神も弁財天です。 俊成が琵琶湖から一対の竹を持ち帰り、島に植えたとされています。竹島という地名も、この伝承に由来すると考えられていますよう。
藤原俊成の後に登場した多くの著名人も竹島の風景に感銘を受け、島の神秘的な力を信じてきました。2世紀半の間、日本を支配した幕府の創始者である徳川家康(1543-1616)は、戦場での幸運を祈願するために1600年に竹島に立ち寄りました。20世紀初頭には、ノーベル賞受賞者の川端康成(1899-1972)を含む多くの著名な作家が、海辺の旅館「常磐館」に滞在しながら島を訪れました。
八百富神社の境内には本殿の弁財天のほか、4つの神社があります。「宇賀神社」は商業や食物の神を祀っており、商売繁盛を祈願する信者が多くいます。「大黒神社」は繁栄の神を祀っており、商人、農民、料理人の守護神とされています。「千歳神社」は藤原俊成を祭神としています。
最後の「八大龍神社」は海の神様を祀っており、竹島の元祖の神社としても知られています。竹島は俊成が来島するはるか以前から、海にまつわる神々の住まいとして信仰されていたと考えられています。この神社もまた、八百富神社本殿と同様、北を向いているのが特徴です。一般的に神社は南向きが最も縁起が良いとされていますが、竹島では人々が暮らす本土を見守るために、逆の配置が採用されたのかもしれません。
竹島は昔から神聖な場所とされているため、何世紀もの間、新しい樹木や他の植物が持ち込まれることがなく、本来の植生が保たれています。島全体が常緑の暖帯林に覆われており、本土の松林や橋の向こうの丹念に手入れされた芝生とは対照的です。
230 種を超える竹島の植物の中で特筆すべき種は、高さ 30 メートルに達し、森の他の部分より高くそびえ立つ広葉樹のタブノキ(Machilus thunbergii)や、濃い緑色の葉に香りがあり、光沢があり、3 本の特徴的な葉脈があるヤブニッケイ(Cinnamomum yabunikkei)などです。数種類のシダ、つる植物、低木が密生した下草を構成しています。木々の下には、キノクニスゲ(Carex matsumurae)という、とがった種子の頭を持つ草のような植物も生息しています。キノクニスゲは亜熱帯地域に多く、日本の太平洋岸では竹島以北に生育していません。
神社の境内は歩道橋から始まる舗装された遊歩道を通って本殿まで行くことができます。そこから島を横切り、他の神社を通り過ぎ、海辺へと下っていきます。遊歩道は海岸線に沿って橋まで戻る。のんびりと島を一周するのに30分ほどかかります。
竹島を訪れるのに最も人気のある時期のひとつが、10月の第3土曜日と日曜日に行われる八百富神社の例大祭です。竹島の大黒神社の神を含む、日本神話や昔話に登場する七福神を祝う舞が行われ、八百富神社の18の氏子地区を代表する山車が本土を練り歩きます。
竹島と三河湾を見下ろす高台に、お城のような佇まいの蒲郡クラシックホテルがあります。1934年創業のこのホテルは、国内初の「国際観光ホテル」(外国人観光客向け政令指定ホテル)として開業し、すぐにベーブ・ルースを擁するアメリカのオールスター野球チームを宿泊させたという由緒ある歴史を持っています。建築的に特徴的な建物や調度品は、近代的な設備を加えた以外は、その多くが開業当時のまま維持されており、当時の生活や嗜好を垣間見ることができます。ホテルの本館と敷地内にある3棟の別館とともに国の登録有形文化財になっています。
現在蒲郡クラシックホテルとして知られるホテルは、織物商で財を成した名古屋の実業家、滝信四郎(1868-1938)によって設立されました。滝家は蒲郡に別荘を持っており、信四郎は三河湾の風景が気に入っていました。蒲郡をより有名な観光地にすることを決意した彼は、1912年、竹島の対岸に旅館「常磐館」を開業しました。
滝は川端康成(1899-1972)、谷崎潤一郎(1886-1965)、志賀直哉(1883-1971)ら著名な文学者を常磐館に招き、蒲郡について執筆を依頼しました。これらの作家の作品に紹介されたことで蒲郡は広く知られるようになり、この成功によって、滝は竹島地域の開発への決意を固めました。彼は1930年代初めに竹島への恒久的な橋の建設に資金を提供し、常磐館の上の丘に西洋式ホテルを建設しました。
滝の決断は政府によって支持されました。政府は日本の貿易収支のマイナスを是正する手段として外国人観光客を日本に呼び込もうとしました。外国人観光客を受け入れるための西洋式ホテル建設に公的資金が提供されることになり、滝はその資金の一部を得るための陳情に成功しました。1934年に「蒲郡ホテル」として開業すると、すぐに海外からの客を受け入れるための条件である「国際観光ホテル」指定を受けました。
蒲郡ホテルは開業からわずか数ヶ月で、おそらくその歴史の中で最も有名な海外からの訪問者たちを宿泊させました。1934年11月、アメリカ大リーグのオールスターズ野球チームが、名古屋と静岡で行われたエキシビジョンゲームの拠点としてこのホテルを利用しました。伝説的なベーブ・ルース(1895-1948)を筆頭に、ルー・ゲーリッグ(1903-1941)、ジミー・フォックス(1907-1967)といった名選手も参加しました。アメリカ人選手たちは主に日本のオールスターチームと1ヶ月間の遠征中に18試合を行い、大きな注目を集め、政治的関係が緊張していた当時の日米間に親善をもたらしました。
しかし、野球外交は日米の戦争を止めることはできず、日本軍は第二次世界大戦中、蒲郡ホテルを病院として使用するために接収しました。戦後、米軍はホテルとその周辺をレクリエーション施設にしました。竹島レストセンターとして知られるこの施設は1952年まで使用され、除隊した軍人が太平洋を横断する前に休息し、回復する機会を提供しました。
アメリカの占領が終わるとホテルは再開・改装され、1957年には昭和天皇(1901-1989)と香淳皇后(1903-2000)をお迎えしました。さらに2012年には改装が完了し、蒲郡クラシックホテルとしてリニューアルオープンしました。
本館は海外からの観光客にアピールするために設計され、飾り破風、突き出た軒、塔のような部分など、日本の伝統的な寺院建築や城郭建築の特徴が取り入れられています。客室やレストランからは竹島や三河湾を見渡すことができ、当時の面影を色濃く残しています。ロビーにあるシャンデリアや花をモチーフにしたエレベーターの指針盤、大理石の窓枠、ブロンズの装飾など、アール・デコ調の調度品もオリジナルです。特にロイヤルスイートルームとホテルのメインダイニングルームは、1930年代の雰囲気を醸し出しています。
6角形の六角堂は、その2年前に開業した蒲郡ホテルの別館として1936年に建てられました。木造平屋建てのこの建物は当初、近くの茶室「鶯宿亭」の茶会に参加する客の待合室や土産物屋として使われていました。
六角堂は仏堂をイメージして設計され、瑠璃瓦で覆われた豪華な屋根を持っています。屋根は緩やかなカーブを描く三角形で構成され、願い事を叶える宝珠をかたどった装飾が屋根の頂点にあります。松葉をかたどったシンボルマークは、屋根の基部、一部の装飾瓦、建物の釘隠にあしらわれています。このシンボルマークは、1982年までホテルの敷地内にあった歴史ある旅館「常磐館」のロゴマークでした。
この木造平屋建ての建物は1916年に遡り、蒲郡クラシックホテルの前身である旅館「常磐館」の別館として建てられました。海辺の旅館の宿泊客は、常磐館の本館があった場所のすぐ北、海岸を見下ろす高台にあるこの建物に泊まることができました。
客室は数寄屋風書院造りで、禅の影響を受けた書院造りに茶室建築の要素を取り入れたものです。数寄屋風書院造りの特徴は、目に見える無塗装の木材や淡い色調の土壁、装飾品を飾る床の間、光を取り入れる襖、畳敷きの床などです。
建物は登録有形文化財で、近年は「料亭竹島」として使われてきましたが、2025年から宿泊施設「THE COVE」になっています。
1916年に建てられたこの茶室は、常磐館の旅館や蒲郡ホテル(現・蒲郡クラシックホテル)の宿泊客をもてなすために数十年間使われていました。小さな茶室と、宿泊にも使えるより大きな待合室に分かれており、待合室の大きな窓から三河湾を眺めることができます。ここでの茶会に参加する前に、客は近くの六角堂で待っていました。
待合室は数奇屋風書院造りで、丸太の表面や土塗りの壁といった茶室建築の様式と、床の間や障子、畳といった和室のオーソドックスな要素が組み合わされています。より小さく、より厳かな茶室は、庭から入るときに這うように入る低い扉が特徴的です。このデザインは、もともと武士が茶会に出席する際に刀を抜かざるをえないという意図のもので、現在に至るまで茶室建築の特徴として残っています。
鶯宿亭は登録有形文化財です。2025年から宿泊施設になっています。
海辺の文学記念館では、蒲郡が20世紀初頭に著名な作家たちの保養地として人気を集めるようになった経緯が展示されています。1912年に現在記念館がある海辺に開業した旅館「常磐館」と、その創業者で蒲郡を観光地として発展させるのに重要な役割を果たした名古屋の実業家、滝信四郎(1868-1938)を中心に物語が展開します。館内には常磐館と蒲郡ホテル(現・蒲郡クラシックホテル)にまつわる遺品や資料、常磐館の客室の再現、ノーベル賞作家の川端康成(1899-1972)、谷崎潤一郎(1886-1965)、志賀直哉(1883-1971)など、常磐館に滞在した作家たちの生涯や作品を紹介するパネルなどが展示されています。
蒲郡と日本を代表する文人たちとの交流は、滝信四郎の努力によってもたらされました。裕福な織物商であった彼は、実家の別荘地であり、幼い頃から愛していた三河湾に浮かぶ竹島の対岸に旅館「常磐館」を構えました。
当時、蒲郡はすでに旅行先としてよく知られていましたが、滝はこの地を全国に宣伝したいと考えました。そこで彼は、著名な作家を常磐館に招待し、彼らが蒲郡や竹島、そして常磐館のことを作品に書くことを条件に、常磐館に宿泊してもらうことを思いつきました。この作戦は成功し、常磐館のオープンから、川端、谷崎、志賀、菊池寛(1888-1948)、山本有三(1887-1974)、井上靖(1907-1991)などの作家が旅館を訪れ、数多くの小説、短編小説、詩などで竹島を取り上げました。
川端の短編『驢馬に乗る妻』は、常磐館に隣接して客をもてなすために作られた乗馬場を中心とした作品です。一方、谷崎の『 ささめ雪』では、中心的な登場人物の姉妹の一人が蒲郡を訪れ、花婿候補との満足のいかない出会いの後、常磐館に滞在する場面が描かれています。
常磐館は1982年に解体されましたが、その名残と雰囲気は、1997年に旅館の跡地にオープンした海辺の文学記念館に受け継がれています。この記念館は、1910年に蒲郡の中心部に建てられた、もともとは診療所として使われていた木造平屋建ての建物を竹島海岸に模倣・復元された建造物に入っています。
館内には常磐館に滞在した作家たちのエピソードや、常磐館やその周辺を題材にした作品を紹介する解説パネルが展示されています。1927年8月に谷崎潤一郎が宿泊した当時の様子を再現した常磐館の部屋もあります。畳の部屋には障子があり、障子を開けると対岸の竹島が見えます。
また、蒲郡ホテルとその別館にまつわる品々も展示されています。その中には、ホテルの入り口近くにある六角堂の外観をかつて飾った豪華な木彫りなどもあります。また、蒲郡、竹島、常磐館と蒲郡ホテルの歴史にまつわるテーマを取り上げた特別展も開催されています。
記念館の「時手紙」は、蒲郡で過ごした思い出やメッセージを書くと、来館から2ヶ月~10年後の好きな日に、希望の住所(日本国内)に郵送してもらえるというものです。
ホテル竹島は竹島と三河湾を望む温泉宿でリゾートホテル。客室は全室オーシャンビューで、温泉は内湯と露天風呂があります。夜は布団を敷く畳の部屋、ベッドのある洋室、2つのスタイルを組み合わせた部屋など、9つのタイプから選ぶことができます。レストランでは、蒲郡の料理として有名な深海魚やみかわ牛を使った料理が味わえます。
ホテル竹島は竹島への歩道橋がかかる海沿いから歩いてすぐの場所にあります。ホテルのすぐ外には俊成苑や、蒲郡の織物産業や三河木綿について学ぶことができる竹島クラフトセンターがあります。ホテル竹島から東へ坂を上ると蒲郡クラシックホテルがあり、その敷地内には歴史的建造物が点在しています。
ホテル竹島の最大の魅力は温泉である、という人も多いでしょう。近隣にある4つの温泉地のひとつを構成している蒲郡温泉の中心に位置しています。他の3つは、蒲郡の東にある三谷温泉、三ヶ根山のふもとにある形原温泉、そして竹島エリアの南西、西浦半島の先端にある西浦温泉です。
ホテル竹島のいくつかの客室にはプライベート露天風呂がついているほか、宿泊客は誰でも共同浴場を利用することができます。竹島と三河湾を見渡す大きな窓の前にある、無色透明、無臭、アルカリ性単純泉の広々とした内湯と、同じように絵になる眺めの、天然ラドンの濃度が低い(安全性が高い)露天風呂があります。どちらの浴槽のお湯も敏感肌の入浴者にも適しており、その特性により、入浴後は肌がスムーズになり、少しスベスベになります。
ホテル竹島の2つのレストラン、伝統的な和食レストラン「日本料理 常磐」とフレンチスタイルの「レストランリヴァージュ」では、地元の食材が自慢です。刺身、焼き物、煮物など、蒲郡の名産である深海の幸を使った料理が多く、アカザエビやまろやかなメヒカリなどが提供されています。地元のブランド和牛であるみかわ牛はしゃぶしゃぶやステーキで楽しめるほか、地元の果物や野菜もよくメニューに登場します。
蒲郡と木綿との関わりは古代にまで遡るといわれ、織物産業は何世紀にもわたってこの地域の生命線でした。竹島クラフトセンターでは伝統的な織物技術を体験しながら、その歴史を学ぶことができます。
古記録によると、綿花が日本に伝来したのは8世紀のこと。インド亜大陸からの旅人を乗せた船が、現在の西尾市(蒲郡のすぐ西)に漂着しました。この旅人が運んできた綿花の種が、日本で初めて綿花栽培を試みるきっかけになったと言われています。国内での綿花栽培が本格化したのは16世紀に入ってからですが、三河地方(現在の愛知県の東半分、蒲郡市を含む)はすぐに一大産地としての地位を確立しました。
蒲郡の木綿産業は、木綿の衣服が手ごろな価格で庶民に普及した17世紀以降に盛んになりました。明治時代(1868年~1912年)には三河木綿と地元の織物職人による独特の縞模様が高い評価を得ましたが、蒲郡で織物生産の頂点に達したのは第二次世界大戦後の数年間で、手ごろな価格の織物を求める全国的な需要に応えるため、市内外の工場や工房が猛烈な勢いで織物や衣料品を生産しました。
繊維産業はもはや三河の重要な経済的存在ではありませんが、木綿生産の伝統と伝統的な工程は地元の誇りの源泉であり続けています。竹島クラフトセンターではインストラクターが三河の技法を使ったコースター作りを段階的に教えてくれます。参加者は種綿から綿繊維を分離する方法、綿を糸にする方法、そして伝統的な手織り機でコースターを織る方法を学びます。
竹島クラフトセンターはホテル竹島と竹島に渡る橋の近くにある俊成苑に位置しています。
水辺の俊成苑と遠くに見える竹島を見守るのは、公家であり歌人でもあった藤原俊成(1114-1204)の像です。像の目立った配置は蒲郡と竹島エリアの初期の歴史における彼の重要性を反映しています。俊成は蒲郡の開拓者とされ、竹島に八百富神社を建立した人でもあります。
現在の蒲郡市は、歴史的には現在の愛知県の東半分に相当する三河国に属していました。多くの官職を持つ有力公家に生まれた俊成は、1145年から1149年まで三河を国司として治め、その間に蒲郡となる集落の開発に貢献しました。
伝承によると俊成は竹島の風景に魅了され、京都に近い琵琶湖に浮かぶ、よく訪れたことのある神聖な島に似ていると思ったといいます。この連想から、俊成は竹島に芸術の神様であり、琵琶湖の島でも祀られた弁財天を祀る神社を建てることを思いつきました。弁財天は現在も竹島に祀られており、千歳神社では俊成自身が祭神として祀られています。
歌人としての俊成の功績は俊成苑で讃えられ、看板には俊成が生涯に詠んだ和歌が掲げられています。俊成の年長の親戚には著名な歌人が多く、彼は若い頃から自分で歌を詠み始めました。31音を5-7-5-7-7の5行にまとめた「和歌」を詠み、和歌の名手として知られるようになりました。後年、歌人として最高の栄誉のひとつである勅撰和歌集の編纂を任されました。
俊成は1188年、全20巻からなる『千載和歌集』を完成させました。彼は90歳まで生き、息子の藤原定家(1162-1241)が歌人として名声を得るまで成長するのを見届けました。定家はやがて芸術的影響力で父を凌駕し、伝統的に和歌の最も偉大な巨匠の一人とみなされています。
蒲郡市竹島水族館では三河湾や太平洋の深海に生息する豊かな海の生物について、クリエイティブでインタラクティブな展示で紹介しています。一般的な説明パネルとは異なり、水族館内の手書きの案内板には、展示されている魚や甲殻類などの詳細が小学校の成績表や履歴書のような形式で紹介されています。また、海の生き物たち自身の 「コメント」を想像させるようなものもあり、特に子供たちにとっては親しみやすいものとなっています。
この水族館では海の生き物の生息環境をデザインする際にも同様のアプローチをとっています。ある展示は、カラフルなシンダーブロックをアパートのように並べ、名前と住所を記したものです。この水槽に生息する深海魚は海底付近の状況に似ているため、ブロックの限られたスペースが快適なのです。
展示されている深海生物の多くは希少なもので、蒲郡から出漁している4隻の遠洋漁船で働く地元の漁師の網にうっかりかかってしまったものも多く、竹島水族館にはサメ、タイ、エビなど約140種類の深海生物がいます。
この水族館のもうひとつの重要なテーマは地元の魚介類に焦点を当てていることです。水槽の一部には食べておいしい海の生き物を示すステッカーが貼られ、写真やビデオを使って、特定の魚を食材として調理する方法が紹介されています。
水族館の一角には浅いオープン水槽があり、来場者は海の生き物を優しく撫でることができます。魚や甲殻類だけでなく、カワウソやカピバラ、カメなども飼育されています。アシカのパフォーマンスも1日3回あります。
愛知県中部に位置する蒲郡市は風光明媚な観光地です。三河湾に面し、名古屋から電車で45分ほどのところにあります。その中でも特に有名な名所が竹島という小さな島で、竹島は本土と387メートルの歩道橋で結ばれており、12世紀に建てられた八百富神社の鳥居へと続いています。竹島全体が八百富神社の森に覆われた境内になっています。橋の本土側周辺は2つの有名ホテル、温泉、水族館、公園、博物館、長い海辺の遊歩道、三河湾の海の幸などの特産品を提供するレストランやカフェで構成されるリゾート地となっています。また、竹島エリアは自然豊かな三河湾国定公園の一部でもあります。
蒲郡と竹島が憩いの場、観光の場として広く知られるようになったのは、名古屋の実業家、滝信四郎(1868-1938)が竹島近くの海岸に旅館を建てた20世紀初頭にさかのぼります。蒲郡の穏やかな海、浜辺、温泉に魅せられ、谷崎潤一郎(1886-1965)やノーベル賞作家の川端康成(1899-1972)をはじめとする有名な作家たちが、滝の旅館「常磐館」に滞在するようになりました。彼らの模範や著作はそれ以来、多くの人々に竹島で休暇を過ごすインスピレーションを与えています。
常磐館は前述の文人に焦点を当てた記念館に取って代わられましたが、宿泊でこの地域の歴史を感じたい人は、由緒ある蒲郡クラシックホテルの部屋を予約することができます。竹島と三河湾を見下ろす高台にあるこのホテルは1934年に蒲郡ホテルとして開業し、城をイメージした本館と敷地内の3つの別館が保存指定されています。竹島近辺のもうひとつの瀟洒なホテルは、オーシャンビューと温泉で知られる海辺のホテル竹島です。
ホテル竹島に隣接する蒲郡市竹島水族館は三河湾とその周辺の海の生き物を、特に深海魚を中心に紹介しています。蒲郡は愛知県で唯一の深海漁業船団の母港であり、深いところでは水深700メートルの深海で獲れる魚は、蒲郡のローカル料理にもよく登場するほか、浅瀬で獲れる魚介類、上質な牛肉、果物などの食材も味わえます。
竹島への歩道橋の近くにある小さな公園「俊成苑」は、公家で歌人の藤原俊成(1114-1204)を記念するものです。俊成は地域の国司を務めながら、竹島に八百富神社を創建し、後に蒲郡となる集落の開発を始めた人物です。公園内の俊成像の近くには竹島クラフトセンターがあり、蒲郡の織物生産の長い歴史を学び、伝統的な織物技術を体験することができます。
竹島のすぐ先には大きな無人島、三河大島があり、夏には臨時のレストランや売店がオープンし、海水浴客で賑わいます。三河大島は竹島水族館に隣接する桟橋から船でアクセスできます。また、蒲郡の郊外や西に位置する西浦半島にもいくつかのビーチがあります。
三河大島の一部は、ナメクジウオの日本最北限生息地として国の天然記念物指定を受けています。また、ここでとれるアサリを使った味噌汁は絶品で、地元の漁師太鼓判のおすすめの逸品です。市内や隣の西尾市のお食事処では、三河のアサリのおいしい料理を提供しているところもありますので、是非、ご賞味ください。
沿岸に位置し、恵まれた自然環境のもと、蒲郡市は活気ある食文化を育んできました。市は遠浅の三河湾に面し、多様な魚介類が水揚げされるほか、この地域では唯一の深海漁業も盛んです。また、三日月形の低山が三方を囲み、温暖で日照に恵まれた気候は、みかんやいちごなどの果物の栽培に適しています。さらに、蒲郡周辺はブランド和牛「みかわ牛」の産地でもあります。蒲郡クラシックホテルやホテル竹島の館内レストランをはじめ、竹島エリアにはさまざまなレストランがあり、地元の食材を使った料理を味わうことができます。
三河湾の穏やかな海と砂浜は、蒲郡の食文化に欠かせない体長4センチほどのアサリの生息地です。晩春から初夏にかけて、このアサリを掘るために大勢の人が竹島の海岸に押し寄せます。アサリは全国的にかなり一般的な貝ですが、三河湾ほど多くのアサリが獲れる場所は少なく、日本で漁獲されるアサリの約48%がここで獲れます。あさりは味噌汁の具として使われることが多く、蒲郡では太めの麺であるうどん、ワカメ、魚介類のだし汁と一緒に「ガマゴリうどん」と呼ばれるポピュラーな料理で食べることができます。
一方、湾の向こうの深海では、蒲郡ではよく食べますが一般にあまり馴染みのない種類の魚介類が獲れます。愛知県で唯一の4隻の深海漁船団が、緑色の目が印象的で白身の柔らかさが珍重されるメヒカリや、細長い体と青みがかった身が特徴で鮮度落ちが早く、漁場以外ではめったに食べられないニギスなどを安定供給しています。また、アカザエビとタカアシガニも珍味とされています。アカザエビは体長25センチほどの小さめのロブスターで、一般的なイセエビに比べ、身がやわらかく、やさしい甘みがあります。タカアシガニもやさしい甘みを持ち、そして鋏脚を広げると3.8メートルまで達することがある世界一大きなカニです。深海魚は蒲郡市内の飲食店で刺身、塩焼き、フライなどで注文できますが、漁獲量が比較的少なく、種類によってはいつでも手に入るとは限りません。
蒲郡市を含む愛知県の地域は、特にその柔らかさで知られるブランド和牛「みかわ牛」の産地です。このブランドが確立されたのは1990年のことですが、この地域で和牛を飼育する歴史は古く、三河にある60に近い認定牧場で飼育された牛のうち、日本の5段階肉質等級で4または5の等級に格付けされたものだけがみかわ牛と認定されます。みかわ牛はステーキやすき焼き、しゃぶしゃぶなどの料理で食べられています。
蒲郡の果樹栽培は、比較的温暖な気候と豊富な日照量の恩恵を受けています。一年中、南の海から暖かい風が吹き込み、みかん、いちご、ぶどう、メロンなどの果物に栄養を与えています。市街地周辺の丘などに栽培されているみかんが特に有名で、「蒲郡オレンジパーク」では10月から12月にかけてみかん狩りができます。またオレンジパークでは1月から5月までいちご、6月から9月下旬までメロン、6月下旬から9月中旬までぶどうが収穫できます。
三河湾国定公園は1958年に創設された、愛知県最古の自然公園です。公園は、三河湾、渥美半島と知多半島、蒲郡市街地を含む広大なエリアをカバーしています。
渥美半島の南側は太平洋に面しており、海岸線の大部分は砂浜です。半島の先端にある伊良湖岬は、ハイイロノスリの繁殖地です。鳥は3月下旬から岬に到着し、秋までそこに留まって雛を育てます。伊良湖岬(Cape Irago)の近くにある 30 キロメートルに渡るビーチ、片浜十三里(Katahama Jusanri)はサーファーに人気があります。アカウミガメは、毎年春と初夏に片浜十三里に卵を産みます。ボランティア団体がカメの巣を監視し、さまざまな取り組みを通じて孵化したばかりの子ガメの保護に取り組んでいます。カメや浜辺の植物を保護するため、渥美半島のどの海岸でも車などの乗り入れは禁止されています。
知多半島の幽群岬にあるウバメナシの森は国の天然記念物に指定されており、近くには鵜の繁殖地があります。渥美半島と同様に、知多半島の海岸線のほとんどは砂浜です。そこには、アサリ掘り、釣り、醸造所ツアーなど、することがたくさんあります。
蒲郡は三河湾にあるリゾートタウンで、三谷、蒲郡、形原、西浦温泉などの温泉で知られています。スタンドアップパドルボード、カヤック、ボートなどのマリンスポーツは、西浦パームビーチや近くの無人島三河大島で人気のレジャーアクティビティです。